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 シュークと逢引きをして数日がたった。まだシュークは次の逢瀬について何も言ってきていない。卒業まで一か月を切った。もう時間はあまりない。
 そんなある日の放課後、ホームルームが終わって教室を出ようとしたぼくはイワシ先生に呼び止められた。
「えーと…あぞらん」
「はい…」
 ぼくは少し緊張して答える。シュークとの映写室でのがやりとりが心をよぎる。
「卒業後の外界での心構えについていろいろ話があるから午後四時にF棟の第三応接室に来てくれ」
「はい」
 ぼくの緊張の度はやや増した。なぜならそのときのイワシ先生の心にかすかに嘘を言っている人間特有のものが感じられたからだ。シュークとのことについていろいろ訊かれるのだろうか? まだ何も咎められることはしてないが、近いうちにするつもりでもいる。あるいはそのときの帰りにイワシ先生が校長先生と言い争っていたことについて? …いや、こちらの方は本当に詳しいことは知らない。
 ただ、追求された場合、どこまでしらを切り通すことが許されるだろうか。例え「仮の」ご主人さまだとしても(本物のご主人さまに追求されたときには嘘や隠し事をしてはいけない。【有機人形三原則】の1「ご主人さまには絶対服従」に反する)。
 こういう場合はむしろあまりそれらのことを考えない方がいい。いや、積極的に忘れよう。少なくとも今後三時間はそのことを脳の忘却の戸棚にしまっておくことにした。うん、忘れた。忘れたものは答えられない。…まあ、イワシ先生の追求の一言で思い出してしまうかもしれないが…。

 第三応接室は理科室の隣にあり、主に人形院に出入りする業者と理科担当の先生が会合に使う部屋…らしいけど、あまり使われることはない。ただ、卒業前の時期は卒業生の品定めに来る顧客・業者が多く来院し、他の応接室が既に使われているときは来訪者がここに回されることもある。
 実は以前、シュークとぼくはここを逢引の場所として使ったこともある…けど今はそれも思い出さない方がいいだろう。
 ぼくはできるだけ物事を考えないようにして四時きっかりに第三応接室のドアを開けた。
 壁に小さな抽象画の複製が掛かっただけの殺風景の窓のない小さな部屋、そこには既にイワシ先生と、数人のクラスメイト…デスー(♀)、ケラセ(♂)、タノ(♀)、そして委員長のシランバ(♀)が小さなテーブルを囲んでそれぞれ応接用の大小のソファや予備の椅子に座っていた。ぼくより少し遅れてマイガッタ(♀)が入ってきた。
 イワシ先生が口を開く。
「全員そろったな」
 ぼくは何も考えないようにしていたのでこのときは気付かなかったが、この組み合わせは後で思い出してみれば明らかに妙だった。出席番号順でまとめたわけではないし、ランダムでもなさそうだ。何か関連性があるわけでも仲良しグループでもない…というよりその逆だ。つまり、意図的にお互いに関連性の薄いクラスメイトたちをまとめたのだ。多分、他のクラスメイトも全員、このような形に分けられたのだろう。
「これからお前たちは卒業してそれぞれのご主人さまの下へ行くわけだが…」
 イワシ先生の話が始まる。
「まあ、『企業に買われて』というパターンも多いがな。でもこの場合もその部署の責任者が『ご主人さま』だから、別に個人に買われた時と大きな違いはない。個人にしろ企業にしろ、長くはない一生のうちで『ご主人さま』が替わることも珍しくない」
 今のところイワシ先生は別にこれといった特別なことは言っていない。
「大切なのは【有機人形三原則】をしっかり守ることだ。それだけで有機人形は平穏でいられる。いつものように唱和してみな」
 イワシ先生が片手を上げて合図する。ぼくも他のみんなと一緒に声に出して【有機人形三原則】を暗唱する。
「1. ご主人さまには絶対服従」
「2. 有機人形同士は仲良く」
「3. 私たちは道具です」
 イワシ先生は指を鳴らしたあと、満足そうに微笑んでうなずき、話を続ける。
「そうだ。そしてこの【有機人形三原則】の中で最も重要なのが『1. ご主人さまには絶対服従』だ。これこそが有機人形の有機人形たる所以だ」
 うーん、イワシ先生だけじゃなく、他の先生からも何度も聞かされた話だ。
「きみたちの中には戦闘用になる者もいるかもしれない。言うまでもないことだが、有機人形はもともと戦闘用として…もっと直接的に言えば人間を殺すために創られたものだからな。戦闘用から要人護衛用、そして夜のお供にも使われるようになったのは二次的な変化に過ぎない。だからロボットと違って人間殺傷に関するタブーはない。だけど…いや、だからこそ戦闘と殺人は『ご主人さま』の命令がある時だけに限られる。普段は他の人間や有機人形を慈しまなければならない。仲間同士でいがみ合ってご主人さまを悲しませてはいけない。これが【有機人形三原則】の2の意味するところだ。もっとも【有機人形三原則】の1と2では1の方が優先されるが…おっと、この六人の中には戦闘用になる可能性のある者はいないか…」
 やっぱりイワシ先生は特別なことは言っていない…というより、なんかマニュアルを棒読みしているような感がある。
「…きみたちの中にはご主人さまの要望や、あるいは肉体改造医(クトゥーラー)に直接買われて様々に肉体改造される者もいるかもしれない。それが【有機人形三原則】の3.『私たちは道具です』の意味するところの一つでもある。でもそれを怖がる必要はない。肉体改造されることを…特に一流のクトゥーラーに改造されたのならなおさら誇りに思って欲しい。まあ、スクレモールの卒業生の場合、四つ星以上のクトゥーラーに改造される可能性はかなり低いが…」
 だめだ…眠くなってきた。イワシ先生の口上がまるで子守唄のようだ。ぼくは授業中に寝ることは滅多にないのだけれど…。あれっ? 他のみんなも眠そうにしている。委員長のシランバまで…。
 イワシ先生は少し小声になって続ける。
「これから話すことは最も重要なことだ。きみたちは卒業する。そこで普通なら一旦、私との縁は切れる。もちろん同じ教室で学んだ者同士、それぞれスクレモール人形院卒業生としての誇りを胸にご主人さまに仕えることだろう。一般的に同じ人形院で学んだ有機人形同士の仲間意識はとても強いものだ。ご主人さまが許せば昔の仲間同士、あるいは私とも連絡を取り合うことは可能だ。だが、私はそれ以上のことをきみたちに命じたい」
 ぼくも他のみんなも半分寝ながらイワシ先生の話を聞いている。半睡眠状態なのになぜかイワシ先生の言葉がすんなり頭に入ってくる。…これがいわゆる「睡眠学習効果」だろうか。イワシ先生はなおも話を続ける。
「私にはある目的がある。…というよりその目的のために今、スクレモール人形院の教官をしていると言ってもいい。正直、自分一人だけではできそうもない。きみたちの力が必要なんだ。卒業した後、『ご主人さま』がいない状態で今の言葉を覚えていたら私の力になってくれ」
 ちょっと待て。今のイワシ先生の言葉…自分の教え子を私用目的で使おうとするのは人形院の教官として逸脱行為では? …いやその、他ならぬイワシ先生の頼みならぼくは協力したいけど…。それよりイワシ先生の「目的」って何?
 疑問を反芻する間もなくイワシ先生の言葉がさえぎる。
「…私の話はそれだけだ。いいかい? さっき話したことは私が合図したら全て忘れるだろう。もしかしたら一生忘れたままかもしれない。でも、もし思い出して…そのとき自由の身だったら、私の所に来て協力して欲しい。じゃあ、今から合図するよ…」
 イワシ先生は指を鳴らした。
「…そうだ。【有機人形三原則】の3.『私たちは道具です』とは『余計なことは考えるな』という意味も含む。全てにおいて考えすぎるとかえってつらいことになる。『思考停止』は自らの精神を守るためにも必要なことなのだ」
 ぼくは眠いままイワシ先生の話を聞いている。イワシ先生はさっきからずっと今まで何度も聞いたようなことばかり言っている。それが重要だってことはわかるけど、わざわざぼくたちをこんなところに集めてまで話すことでもないような…。

 イワシ先生の話が終わり、ぼくたちはぞろぞろと第三応接室を出る。つまらない長話を聞いた徒労感か、みんな無言のままだ。
 今回はシュークとの逢引きに関しての話はなかったが、油断はできない。…というよりシュークとの一線を越えれば必ずぼくも呼び出されて叱責を受けるだろう。女子には卒業前に忌々しい「検査」があり、何をしたかはすぐにばれるからだ。
 …それより、どうも何か心に引っかかることがあるような気がするのだけど思い出せない。

                                        に続く

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