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 日はだいぶ西に傾いている。夕食前の午後5時20分、黄昏時…というにはまだ早いかもしれない。その日の夕食当番ではないぼくは映写室に向かった。
 ぼくはいつもの制服のまま、クリーム色の髪を耳の上で左右二つにまとめる。いつもとは違う髪形だ。これなら解像度の低い監視カメラならぼくとはわからないだろう。ぼくの居場所が学校側に筒抜けになる携帯端末は部屋に置いて、待ち合わせ時間までの数分、別の場所へ行くそぶりをして、さらに用心のためできるだけ監視カメラに写らないルートを通り、五時半きっかりに映写室の扉を開ける。
 しばらく部屋全体を見渡して、部屋の奥、台の向こう側の一番見つかりにくい位置にシュークの姿…というよりも感情を見つけた。
 ぼくは映写室に入って扉を閉める。ここは(多分)予算の関係で鍵が付いていない。旧式の映写機など誰も欲しがる者はいない。使われることも滅多にない。…だがそのおかげでときどき一部の有機人形たちが職員の目を盗んで逢瀬を重ねる場所になっている。
 ぼくとシュークがここを使うのはこれで三度目だ。毎日、顔を合わせる仲だから何か特別なことがない限り、ここや別の秘密の場所を使ったりはしない。前回は確か…九か月前、付き合い始めて二周年を記念してここで過ごした。「過ごした」といってもまあ、たいしたことはしていない。三十分ほど、キスしてお互いの大事なところを愛撫して、他愛もない話をしただけだ。
 そして今日の五時間目の休み時間、シュークは「大事な話がある」と小声でぼくにこの時間、この場所を指定してきたのだ。
 ぼくはシュークの横に座り、小声で話しかける。
「『大事な話』って何?」
 シュークは少し震えていた。勇気を振り絞って、何かとても大切なことを訴えようとしているのが感じ取れる。シュークは何か詰まったものをしぼり出すように言葉を吐き出した。
「わたしと…セックスして…」
 一瞬、時間が止まったような錯覚に陥る。
 これを予想していなかったわけじゃない。でもぼくの心臓の鼓動は急激に速くなっていた。ぼく自身と、そしてシュークを落ち着かせるためにぼくは一つ大きく深呼吸をして、あえて確認をした。早まっての誤解は良くない。
「『セックス』ってヴァギナへのペニスの挿入を伴うやつのことだよね?」
 シュークは無言で、しかしはっきりとうなずいた。ぼくはまだ心も上の空のまま、引き続き自分たちの心を落ち着かせるためにつまらない質問をする。
「いつもみたいにオーラルセックスだけじゃだめなの?」
「うん。もうすぐ卒業だし、最後に何か特別な…証が欲しいの。わたしとあぞらんが愛し合っていたっていう…」
 もしかしたら今日の総合リクリエーションでのマリカナとの行為がシュークの気持ちをこの方向に決心させたのかもしれない。少し落ち着きを取り戻したぼくはシュークを思いとどまらせようとする。
「だめだよ。イワシ先生は『性器の挿入を伴う性行為はしちゃだめだ』っていつも言っているじゃないか」
「でもその後、たいてい『どうしてもって言うならしてもかまわない』って続けてるじゃない」
「…それはイワシ先生のある種の優しさで…」
「うん、わたしもイワシ先生の優しさだと思う。『有機人形三原則』でがんじがらめに縛られた一生を送るわたしたちにほんの少しだけでも自由な機会を与えてくれているんだと思う。だから…ここは素直に優しさに甘えようよ」
「ぼくはできるだけ未来の自分からの視点で物事を考えるようにしている。…これから卒業したらぼくたちは別れることになる。そして多分、それぞれのご主人さまを愛するようになる。そうなったとき…過去の自由な行為と、その代償としての処女膜再生手術は悔恨にしかならないと思う」
「未来がどうなるかなんて予知能力者じゃない限り誰にもわからない。だけど、あぞらんと最後の一線を越えずに卒業したらきっと後悔すると思う。どうせ後悔するならやらずに後悔するよりやって後悔した方がいい」
「後悔のレベルが違う。世の中にはやらずに後悔した方がいいものの方がはるかに多い。犯罪とか…そう…これは犯罪のようなもの…」
「全身をかきむしりたくなるような悔悟にさいなまれても、それはあぞらんとわたしが愛し合った証。わたしはその証と共に残りの人生を生きる」
 お互いにちょっとむきになっている、と思ってぼくはいったん口をつぐみ、別の角度から切り出す。
「…それに、場合によっては脳改造されてお互いの存在すら忘れるかもしれない。そう考えたとき、ばかばかしい代償を払ってまでする行為なのかと…」
「たとえ手術を受けても、脳が忘れてもあぞらんと繋がったという事実は消せない」
「…だったら今までのことで充分じゃないか。この先のことは苦痛でしかない」
「…だから苦痛でもいいの。証が欲しいの。もしわたしとあぞらんとの間に何も起こらなかったら、そっちの方がつらいし、苦しい」
「何も起こってないわけじゃ…」
 …言いかけて、後に続く言葉をのみ込んだ。うーん、堂々巡りになっている。
 重苦しい沈黙が続く。
 シュークがその気になればぼくをレイプすることはわけもない。シュークはぼくを簡単に押さえ込み、ぼくのペニスを勃起させ、それを自らの中に挿入するだろう。でもシュークはそうする気にはなれないようだ。
 多分、ぼくは未来を少しでもましなものにするために逆算して今を生きて、シュークは未来に対しての自分自身の無力さを考慮に入れた上で今を精一杯生きたいのだろう。考え方の違いで、どちらが正しいという類のものではない。お互い、自己満足に過ぎないのかもしれない。
 …だったらシュークを納得させるためだけであっても、ここは自らが引いてセックスをした方が良いのではないか。そもそもぼく自身はシュークとのセックスは興味半分・恐怖半分だ。破瓜に伴うであろう苦痛は多分ぼくの脳も直撃する。これを遮断しようと思えばできるが、それは卑怯というものだろう。何よりも「シュークの未来のためを思って」などという考えは押し付けがましいことこの上ないのではないか…。
 ぼくがいろいろ思いを巡らせていると、シュークは一つため息を付いた後、上を向いて少し微笑みながら先手を打った。
「ときどきわたし、思うんだ。わたしたちってなんてちっぽけなんだろうって…」
「…うん、ぼくもそう思う」
 ぼくはシュークの意図を測りかねたまま、その言葉には同意した。
「ねえ、あぞらん。神様っているのかな?」
「未来の『ご主人さま』がぼくたちの神様でしょ」
「じゃあ、オーバーロードは?」
 …ぼくはシュークのその質問に平手打ちされたような衝撃を受けた。
 「オーバーロード」とは昔のSF小説に出てくる人類を導く存在だ。そうなんだ! こういうことを言うからぼくはたまらなくシュークが好きなんだ。少し心を落ち着かせてからぼくは答える。
「『いない』…と思うけど、『いる』と考えた方がいいね。うん、その方がずっといい!」
「でも、あまり宗教とか、お告げとか、宇宙の神秘に走りすぎない方がいいかもね。あ、でもあと一ヶ月で卒業だからそういう心配はないかな?」
 シュークは少しはやるぼくの心をたしなめた。そうだ。ぼくも常々心がけているように、大きな視点から物事を考えるのはいいが、その方向に傾倒しすぎるとかえって視野は狭くなる。大きな視点…というより複数の視点で物事を見るべきなのだ。
 多くの有機人形には弱いテレパス能力、すなわち微弱な電磁波を感知する能力があるため、「なんだかよくわからないもの」を受け取りやすい。残留思念(幽霊)とか、あるいは単なる自然現象に由来するもの(火山・気象・地震=昔の人はそれらの電磁波を精霊と解釈した)も含めて。そしてそれを受け取る側が誤った解釈をするとどんどん間違った方向に行ってしまう。
 ごくまれに電磁波感知能力ではない本物の未来予知能力(どういう原理だろう? 素粒子把握能力だろうか?)を持った有機人形もいるらしいが、ぼくはお目にかかったことはない。このスクレモール人形院に一人でもいるのだろうか?
 シュークが壁にかかったアナログ時計を見てつぶやいた。
「あ、もうこんな時間。…この続きはまた後にしよっか」
「うん」
 もうすぐ夕食の時間になる。今回は時間切れだ。
 まずシュークから、少したってからぼく…というように別々に映写室を出る。

 一人で暗くなった廊下を歩きながら、その日の逢引きの中途半端な結果にもかかわらず、ぼくの心は晴れやかだった。
 ぼくの気持ちはある方向に傾いている。少し時間を置くのは良いことだ。より気持ちの整理ができる。また気が変わって逆の方向に傾くかもしれないけれど…。
 渡り廊下からあえて中庭を通る。ここは校長室の近くだからあまり通りたくはないのだけど、シュークが反対側から寮(男女別棟だが校舎からは同方向)に向かったので同じ道は避けたい。できるだけ監視カメラに映らないように小道からは外れた茂みや木々の間をすり抜ける。
 不意に校長室から怒鳴り声が漏れ聞こえた。耳とテレパスを澄ます。どうやら大声の主はイワシ先生のようだ。温厚なイワシ先生が校長先生を相手に怒鳴るなんて普通では考えられないけど(ぼくたち生徒相手にすら一度も怒鳴ったことはない)、単なる怒りではなく哀しみその他もっと複雑な感情もかすかに読み取れる。少なくとも単純にイワシ先生と校長先生が喧嘩しているわけではなさそうだ。
 ちょっと興味はあるが、校長室までは距離があり、壁や低木でさえぎられているので詳しいことはわからない。壁の近くは監視カメラの視界で近づけない。それにぼく自身、シュークとの逢引きの後で少々後ろ暗いところがあるのでここはそのまま通り過ぎよう。そしてこのことは誰にも言わない方が良さそうだ。
 ぼくはあえて能天気なことを考えながら足早にその場を去った。
 (今日の夕食のメインはティラピアの味噌煮だっけ?)

                                    に続く

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