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 けだるい七月の午後、中庭のアジサイの花も色あせてきた。こんだら亭の修理、改装も終わり、今日から新装開店だ。でも開店初日なのにもかかわらず客は少ない。広告宣伝に問題があるんじゃないかとぼくは思う。
 従業員一同が暇をもてあましていた中、黒塗りの地上車に乗ってあまり嬉しくない客が来た。部下の男に続いてサングラスに黒帽子をかぶった太めの中年男が後部座席のドアから店の前に降り立った。サーメンチャイとマフィアの一行、数名だ。
 サーメンチャイは妙にうきうきした表情と心で正面玄関から中に入り、イワシ先生を呼び出す。何か重要なことを伝えたいらしい。サーメンチャイは吉報の使者のつもりらしいが、それがイワシ先生やぼくたちにとっても同様であるかはわからない。いずれにせよ、サーメンチャイはこういう場面ではストレートに感情を表す。自分と違う立場の人間の心に思いをはせるのは苦手なようだが。
 イワシ先生はサーメンチャイを応接室に案内する。サーメンチャイの部下三人と、チュー・オチュー、パンテル・ネビュルーズ、そしてぼくも応接室に入る。イワシ先生の心はにわかにざわめいている。
 サーメンチャイが満面の笑顔とともに漢字とニホン文字が書いてあるカードを三枚差し出した。
「キボウバシへ行ける許可が下りた。良かったなあ」
「ありがとうございます」
 イワシ先生はできるだけ平静を装って礼を言う。イワシ先生の心は単純な喜びではない。様々な感情が渦巻いていて少し怖いくらいだ。

 翌日、サーメンチャイ一行が帰った後、イワシ先生は地下会議室に教え子の有機人形たちを召集した。主な議題は誰がイワシ先生と一緒に皇国内地のキボウバシに行くかだ。こんだら亭にいる教え子の多くが出席しているが、サーメンチャイの相手をした後で疲れているシュークやこんだら亭の防御システムを統括しているセギュルラ先輩などはこの会議を欠席している。彼女たちはもとよりイワシ先生の同行者の候補には挙がらないだろう。
 さて、同行者は二人。あくまでも「有機人形」ではなく「人間」として。場合によっては戦闘の可能性があるので一人は戦闘用が望ましい。…つまり、一人はぼくかパンテル・ネビュルーズのどちらかだ。パンテル・ネビュルーズは明らかに行きたくてうずうずしていたが、反対意見が相次いだ。
「タトゥー消しが面倒くさい」
「こんだら亭に残るのがあぞらんではちょっと頼りない」
「内地に行くのがパンテル・ネビュルーズだと無用のトラブルを引き起こしそう」
 結局、ぼくになった。信頼されているんだかされていないんだか…。第一、タトゥー消しよりヘルメットをごまかす方が難しいと思うが…。イワシ先生に優しく諭されてパンテル・ネビュルーズも最終的には納得した。まあ、ぼく自身もちょっとこの目で独裁国の内地を見てみたいところだけど…。
 もう一人はストレートの黒髪に黒い瞳で人間の女に近い外見のホーメンケ先輩が選ばれた。

 内地行き当日、賄賂が効いたのか特にトラブルもなく内地との境を越え、昼下がり、ぼくたちは西方ニッポン皇国内地の目的地キボウバシに向かうワゴン車の荷台の中にいる。ワゴンの荷台部分のガラスには黒いテープが全面に貼られ、中からは外の景色が見えないようにされている。
 ぼくの右隣にはイワシ先生、さらにその隣にホーメンケ先輩がいる。ぼくたち三人は進行方向と逆向きに荷台の床に座らされている。
 ぼくは頭に包帯を巻いて、瞳を小さくする黒目コンタクトをはめ、テープで目を小さくした上に病人のようなメイクを施している。ゆったりとしたつぎはぎだらけの服は一部血糊がついている…これで病気の人間の子供に見える…かな? ホーメンケ先輩もぼくと同様のメイクだ。20才ぐらいの薄汚れた人間の女といったところか。
 イワシ先生も普段の長髪ではなく、短い黒髪のカツラをかぶっている。三きょうだい…という設定だ。三人とも地味な服装だ。これは皇国側からの「あまり一般臣民の目を刺激しないで欲しい」という要請があったからだが、もとより目立つつもりはない。
 ぼくたちの正面には進行方向を向いてボーゲン・ディーマンとその部下が一人。彼らも目立たないように地味な色のスーツを着ている。普段はくしゃくしゃなボーゲンの髪がきっちり七三に分かれているのが妙におかしい。一応、皇国側との交渉(公務員の買収含む)と道案内担当だが、場合によってはぼくたちを見殺し、あるいは皇国側に加担するかもしれない。
 そして運転席と助手席には皇国政府のそれぞれ監視員が一人ずつ。中年男に若い男だ。二人とも中背で痩せ型、短い黒髪に暗灰色のスーツを着ている。若い監視員の方が運転をしている。そして有機人形以上に表情に乏しく、感情も簡単には伺えない。外見も精神も明らかに人間ではあるが、独裁国家の公務員(?)というのはみんなこんな感じなのだろうか? ぼくたちをあからさまに怪しんでいるというよりは「あまり面倒くさいことに関わりたくはない。余計なことはしないでくれ」といった風だ。

 どのくらい乗っていたのだろうか? 不意に中年の監視員が目的地到着を告げてワゴン車が止まり、まず中年の監視員から、そしてボーゲン・ディーマン…と一人ずつ降りる。ぼくもホーメンケ先輩、イワシ先生に続いてワゴンから降りる。
 乾いた風が頬に当たる。乾いた大地。舗装された広い道路の両側、その舗装道路とは関係ない位置にぼろぼろの家がいくつも点在していて、人間の姿は見えない。そして季節は夏なのにもかかわらず視界には緑一つない。
 出発前にイワシ先生から聞いた話では確か農村地帯だったはずだが…。ぼくは愕然とする。ええと確か…ちょっと離れたところには鉱山があって鉱毒を垂れ流しにして…。ようするに独裁国家が自らの金儲けのために外国資本と組んで大地を汚して、住民を虐げている現場だ。
 不意に若い監視員がその体で「彼女」の視界をさえぎる位置に来て「あまりきょろきょろするな」とにらむ。そりゃあ国としては外国人には見せたくないだろう。
 そう、ぼくは「彼女」の目を通してそれを見ていた。みんなが順番にワゴン車から降りる間に「彼女」と入れ替わったのだ。つまり、戦闘を想定している…ということだ。
 先日、ぼくとホーメンケ先輩がイワシ先生に同行すると決まった会議の後、三人だけで打ち合わせをした時のことを思い出す。

 イワシ先生は感情を押し殺してあえて淡々とした口調で言った。
「男の名はニギザワ・ジグル。その男と会うことが今回の目的だ。場合によっては殺すことになるかもしれない。その場合は私が自ら手を下す。そのときは合図をするから邪魔が入らないように…つまり妨害しようとする者がいたら排除…場合によっては殺害してくれ」

 打ち合わせではイワシ先生が合図をしたらホーメンケ先輩が注意を引き(気分が悪くなったことにする。「病人」という設定だし、実際に鉱毒の影響か、あちこちから異臭もする)、その隙に「彼女」が誰かを人質にとってイワシ先生の邪魔をさせないようにするという手はずだった。
 だが、ボーゲン・ディーマンが一行に参加するということで、合図があったらまず彼を殺すことに決めた。不確定要素はできるだけ取り除いた方がいい。ボーゲンの部下は…何度か会ったことがあるが、まあ、はっきり言ってザコだ。だが、(おそらく)武器を持っている以上、油断してはいけない。その時の位置にもよるが、ボーゲンの頚動脈を切断したあとの返す刀でまとめて殺した方がよさそうだ。
 それから監視員を人質に取る。中年男の方が地位が高そうなのでこちらを人質に取るのが得策だろう…以上のことをワゴン車に乗る前、一同がお互いに簡単な自己紹介をしたところで決めた。

「ニギザワの家はこちらです」
 中年の監視員が目の前のぼろ家を指し示し、自ら引き戸を叩いてその家の主人の名を呼ぶ。かすかな返事が聞こえたような気がする。一見、空き家のようにも見えるが、確かに中からは人の意識を感じる。それもかなり強い念が…。
 その意識に車を降りるまで気づかなかったのはそれを打ち消すほどの強い、荒れ狂った感情が目の前にあったからだ。その感情の主…イワシ先生はそれを監視員たちに悟られまいと必死に平静を装っている。「彼女」とホーメンケ先輩も少しひやひやしながら周囲に気を配る。実際、監視員の二人には明らかに警戒の色が見て取れる。イワシ先生に向けられたものというよりこれからのニギザワなる人物との会合そのものに対して警戒しているのだろう。彼らがイワシ先生とニギザワの関係を知っているとも思えないが(ぼくも知らない)、この国は自国民が外国人と接触するのを好まないようだ。いや、「彼女」が注意すべきは監視員よりむしろボーゲンの方か?
 あたりが緊張に包まれる。
 引き戸が開き、小柄でやせた貧相な老人の男が顔を出す。
「どちらさんで?」
「我々はニッポン党員だ。お前に会いたがっている外国人のきょうだいを案内した。何か用事があるなら手短かに済ませよ」
 その時のイワシ先生の心はとても表現できない。怒り、憎しみ、哀しみ…それらが渾然一体となって「彼女」やぼくの心に押し寄せてくる。ホーメンケ先輩にいたってはイワシ先生の激情に当てられて半分泣きそうになっている。「彼女」はイワシ先生の感情をひとまず受け流してイワシ先生の合図がないか注意する。だが、合図を出すならもう少し心が落ち着いてからの方が良いだろう。
 老人はぼくたち一行を一人ひとり見回した後、中に入るように促す。中年の監視員、続いてボーゲンの部下、そしてイワシ先生の順にボロ家の中に入る。…ちょっと待て! この老人は何かを企んでいる! いや…でも害意は感じられないから大丈夫か?
 ボロ家に足を踏み入れた瞬間、外の異臭とはまた違った臭いが鼻を衝く。生活臭ともいうべき人間の汗、埃、汚物…そして何よりも妙な臭い。家の奥、台所のあたりから暖かい蒸気とともに漂ってくる。この国、この地方独特の郷土料理だろうか? 土地があんな状態では農作物などろくにできないであろうに…。
「狭くて汚いところでげすが…」
 老人は玄関を入ったところにある居間(兼客間)で一行に対して座るように促す。あまり座りたい場所ではないが汚ながって座らないのも失礼に当たるだろう。「彼女」の場合は別の理由、合図ですぐに行動しなければならないというのもある。それでも監視員やイワシ先生、そしてボーゲンが座った後にボーゲンとイワシ先生の間に座る。ゆったりしたつぎはぎワンピースの下ではすぐ立ち上がれるようにひそかに足指を立てている。横を見るとボーゲンもそうしている。全く油断ならない男だ。だが体重が軽く、反応速度も速い「彼女」の方が素早く行動できるはずだ。
「何か話したいことがあれば遠慮なくどうぞ」
 暫しの沈黙の後、若い監視員が会話を促す。…いや、そう言われても監視員の目の前でこの老人が自由にものを言えるわけもなかろう。余計なことを言わぬように前もって監視員たちと打ち合わせをしていたかもしれない。だが、最初に口を開いたのは老人の方だった。
「実はわしはあんたらに全く心当たりがないんだが…、どちらさんで?」
 老人の心には確かに探るようなものが感じられる。
「私どもはジェオギャラックス人のきょうだいです。パッケバラといいます。ニギザワさんですね? 知り合いからの依頼でお訊ねしたいことがあって来ました」
 イワシ先生のこの言葉は虚実ない交ぜだ。ただ、ぼくもイワシ先生の素性や交友関係については詳しく知らないのでどこまでが本当のことなのかは分からない。ホーメンケ先輩なら多分もう少し詳しく知っているだろう。
「…わしがニギザワだが…。…で、その知り合いとはどなたか? わしの知っている人物かな?」
「はい、まあ…多分…」
 穏やかな口調と裏腹にイワシ先生の心は波立っている。
 そして少し間を置き、さらに言おうかどうか少し迷ったあと、続けた。
「キミショウとヤハの兄妹です」
 老人と二人の監視員が同時に驚きの感情を示す。監視員に不必要な警戒を抱かすのはまずいと思うが、今回の内地行の目的そのものがそこにあるのなら仕方ない。独裁国家の公務員は本当に些細な、部外者から見ればどうでもいいようなことで口封じをするらしい。事なかれ主義が極限まで達して別な方向に行ってしまっているのだ。
 …そしてぼくは妹の方を知っている。多分、兄も…いや、早まってはいけない。ぼくの仮説が正しいかどうかまだ分からない。思考の迷路に陥りそうなところ、嗚咽の音で現実に戻される。
「…ぅぅぅぅううう…、すまなかった…、すまなかった…」
 老人がすすり泣いている。悲しみ、懺悔、後悔…そして自己弁護、自己憐憫も混じっているように思えるが、少なくともこの涙は嘘ではない。おそらくそのことをホーメンケ先輩がイワシ先生に耳打ちしている。イワシ先生の心がさらに波打つ。「彼女」は合図が今にでもあるかもしれないと思い、イワシ先生を注視する。
「なぜ…彼らを売ったんですか? 他のきょうだいは…」
 イワシ先生が質問を続けようとしたところで中年の監視員が質問をさえぎる手振りをする。二人の監視員に殺気が芽生えるのを感じ取る。まずい。老人が余計なことを言ったら場合によっては全員射殺するつもりだ。だが、老人は答えない。そしてその答えは聞くまでもないだろう。貧しさゆえの悲劇だ。そんなことはこの国にありふれているのだろう。いや、むしろその兄妹はこんな地獄のような国から逃れられて幸運だったのかもしれない…そう思ってぼくはその妹の方の現在に思いをはせる。彼女は今、幸せといえるのだろうか?
 イワシ先生が別の質問をする。
「奥さん…、ティヤさんはお元気ですか?」
「…つい先日、亡くなりました」
 イワシ先生の心が再び波打つ。同時に監視員の心も驚いたような感情を示し、お互いに顔を見合わせる。彼らも知らなかったことらしい。心を見る限りこの老人は嘘を言っていない。嘘を言ってはいないが…。
「ちょっと待っててくだせぇ。ご馳走がありますんで…」
 老人が席を立つ。まずい! 老人の狂気が増してゆく。…狂気はこの家に入る前から感じていた。それがますます強くなり、今にも暴発しそうなのだ。用意した料理に毒でも盛るつもりか? 若い監視員が老人の後に続く。おかしな行動をとらないようにの同行だろうが、なぜか少しほっとしている自分がいる。
 老人がすすけて変形した深底の大鍋を手に戻ってくる。中に入っているのは煮物のようだが具が殆ど入っていないのか湯気の下は水分しか見えない。
 老人は大鍋を車座の中央に置き、おたまと椀を持ってイワシ先生、ホーメンケ先輩の順によそり始める。「おいおい、まず自分の分からよそれよ」と思うが、どうやら客人の分からよそるのがこの国の流儀らしい。ますます毒が入っていないか不安になる。大半の有機人形は毒見役の意味もあって毒物に対する抵抗力は人間と同じだ。ホーメンケ先輩がイワシ先生に「しばらくは口をつけないように、口に含んでも飲み込まないように云々」と耳打ちする。
 全員の椀に料理がいきわたる。
「ささ、どうぞおあがりください」
 老人の心は狂気に包まれている。「彼女」(ぼく)は朝食後、何も口にしておらず空腹だがあまり食べる気にはなれない。実はぼくたち以上に空腹だったらしい若い監視員が料理に口をつける。まず汁をすする。…その様子と心の変化を見る限り、少なくとも即効性の毒は入っていないようだ。
 ホストである老人、そしてホーメンケ先輩に続き、「彼女」も料理に口をつける。もし毒が入っていた場合、具の方がまだ安全だろうと思い、汁の中から具を取り出す。平べったい小片を箸でつまみ上げる。どうやら動物の腸らしい。それを口に含む。かなり生臭い。ナツメグか生姜で臭み消し…を期待してはいけないか。だが大量生産安価養豚システムの豚独特の汚物と化学薬品の混合臭はしない。あれは最悪だ。とても食べられたものじゃない。
 「彼女」はゆっくり臓物を噛む。まだ飲み込まない。イワシ先生は箸で汁の中身をこねくり回しているだけで口をつけない。それでいい。油断はできない。
「おかわりはたんとありますじぇ」
 老人の心から狂気は消えていない。むしろますます強まっている。毒はこれから盛るつもりなのかと思ったが、ぼくは別の可能性も考える。そうこうしているうちに監視員やボーゲンたちの箸も進み、毒に対する警戒心も少し薄れる。
 若い監視員に続き、ボーゲンの部下もおかわりをする。イワシ先生の荒れ狂っていた心が一瞬静まり、椀に口をつける。いや、食べない方がいいと思うけど…。
 若い監視員が三杯目のおかわりをしたとき、何か大きな丸っこいものが大鍋のスープの中から顔を出す。
 …まさに「顔」だった。人間の顔。煮崩れて骨が一部見えている。片方の目玉はゼラチンの真ん中で白く固まり、もう片方の目玉は…鍋の底か、あるいは誰かの腹の中か…。
「うヴぇヴェぐゲれるれヴぇるれヴぇっ!!」
「うひゃあひぁあふぁああひゃあふゃ!」
 ボーゲンの部下が妙にリズミカルに吐く音と老人の狂った笑い声がほぼ同時に発せられる。
 ズギュウウォオオウウウン!
 銃弾が老人の大きく開けた口から後頭部を撃ち抜く。中年の監視員が懐から素早く銃を取り出してそれを老人に対して撃ち放ったのだ。
 ッタン。ッタン。
 中年の監視員が銃口を老人からボーゲン・ディーマンに向けようとしたとき、それより早くボーゲンが筆記用具を模した小銃で彼の眉間と心臓を撃つ。若い監視員は箸を銃に持ち替えようとして箸をどこに置こうか一瞬、躊躇する。
 ッタン。ッタン。
 ボーゲンがその隙を逃すはずもなく、若い監視員は箸を持ったまま前のめりに倒れる。「彼女」はあえて何もしなかった。監視員に明確な殺気が生じた時点で左腕に仕込んだ樹脂製のナイフはいつでも使えるようにしていたが、監視員の注意は老人と、次にボーゲンに向けられていた。これはある意味、正しい。ボーゲンの射撃能力はイワシ先生や「彼女」を遥かに上回る。
 「彼女」としては「ボーゲンのお手並み拝見」といったところだった。そしてその手際の良さは予想以上だった。
「あーあ、俺もちょっと食べちゃったよ…」
 いつもの髪をくしゃくしゃにする仕草でボーゲンが言う。まあ、ぼくとしてもあまり気分が良いものではない。たとえ有機人形でなくとも、それに近い存在…人間やゴリラやチンパンジーなどを食べたいとは思わない。もちろん、人間を食べたのはこれが初めてだ。
 「内地では食糧難のあまり人肉食が横行している」という噂は知っていた。その中には信憑性の高いものもあったから覚悟はしていた。肉料理らしいとわかった時点で疑ってもいた。毒や睡眠薬を盛られてぼくたちも料理されてしまう…そういった最悪の可能性も考えていた。…だから正直、ほっとしている。
 イワシ先生が半ば放心状態のまま立ち上がって台所に向かう。ホーメンケ先輩とぼくもあとに続く。イワシ先生が調理台の下の戸棚を空ける。空けた途端、血の臭いが鼻を突く。暗くてはっきりとは見えないが、切断された人間の胸と手足が無造作に押し込まれていた。胸の感じからしておそらく老女、あの老人の妻だろうか?
 イワシ先生は立ち尽くしている。その心の中は怒り、哀しみ、無念…それらが入り混じり、嵐のように荒れ狂っている。
「あまりいい趣味とは思えんなぁ。それよりこれからどうする?」
 背後からのボーゲン・ディーマンの声にイワシ先生は振り向いて声の主を睨みつける。ボーゲンが一瞬たじろぎ、両手を胸の高さに上げて目を閉じ、軽い謝罪の意を示す。ボーゲンでもあんな風になるんだ…「彼女」は後ろを向いて声を立てずに笑った。
 それはともかくとしてボーゲンの言ったことはきわめて重要だ。どうやって皇国内地から出る?

                             に続く

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