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 時刻は午後の1時を過ぎていた。障子越しに屋内に差し込む柔らかな陽光でぼくは目覚めた。ニホン式家屋の良いところは強い日差しが直接は屋内に届かず、ひさしや障子で緩和されることだろう。ぼくもそうだが、色素の薄い多くの有機人形にとって紫外線は大敵だ。
 ここはイワシ先生が経営する飲食店兼娼館「こんだら亭」三階のぼく専用の個室だ。ぼくはそっと起き上がり、顔を洗ってクリームを塗り、ネグリジェから制服に着替える。着替えながらカレンダーを確かめる。うん、今日は通常日でいいんだ。
 通常日のコスチュームは基本的な古代ニホンの民族衣装(「キモノ」というらしい)だけど、ぼくのキモノは裾がかなり短くて太腿まで見えるようになっている。戦闘モードに入ったとき動きやすくするためだ。でも何よりもキモノの良いところは着脱のときにヘルメットがつっかえないことだ。貫頭衣だとこうはいかない。ちなみに通常日の他にはメイド日やメガネ日…というのもある。
 キモノに着替え終わったぼくは通常日昼用のメイクをする。全体的にナチュラル風でやや釣り目になるようにアイラインを入れる。付けまつげもおとなしめにして、唇もあまり色はつけずにグロスも控えめにする。ちなみに夜用はややメイクを濃くする。
 畳の上には直接布団が敷いてあり、長身の男が全裸のまま掛け布団を半分蹴飛ばしながら寝ている。
 男はまだ目覚めていなかった。
 ぼくは男の足に半分かかっていた布団をそっと横にどかして既に朝立ち状態のペニスを口に含む。これもサービスの一環だと思えばあまり苦にならない。この男はお泊りの料金こそ払っていないが、丁重に扱わなければいけない。
 ちゅぱっ、ちゅぱっ…。
「…ん、うう…もうこんな時間か…」
 その男、ボーゲン・ディーマンが目覚める。
「おはようございまーす」
 ぼくは彼のモノから口を離し、明るく挨拶した。
 ボーゲンは筋肉質の上半身を起こし、くしゃくしゃの黒髪をかきむしる。これが彼の癖だ。特に意味はないようだが、何か意識的な行動をする前の一種の儀式のようなものらしい。ボーゲンは顔も洗わず、無精ひげもそらずに服を着る。まあ、一目でまともな職業ではないことは想像できるだろう。
 ぼくが後ろからボーゲンに上着を着せようとすると、彼は一瞬、殺気立って怖い顔になったあと表情を緩め、ぼくが背伸びをしなくていいように長身をかがめた。いけないいけない。不用意に背後に回るのは失礼に当たる。ましてやぼくは戦闘用有機人形なのだ。
 ぼくはドアノブを掴み、ボーゲンと一緒に個室から廊下に出た。そのとき、向かいの個室から出てくるシュークと鉢合ってしまった。シュークも男連れだ。まあ、よくあることだけど、お互いにちょっとばつが悪く苦笑いする。
「あ、おはようっす」
 ボーゲンもシュークの連れの禿頭の太った中年男に挨拶をする。その中年男、サーメンチャイは鷹揚に片手を上げ、眠そうに一つあくびをした。

 営業中(他に客はいないけど)の一階の茶屋の奥の方でサーメンチャイ、ボーゲンほか数人の男が何やらひそひそ話をしている。そこにイワシ先生、ぼくの元同級生でクラス副委員長だったチュー・オチュー(♂)、猫(ウンピョウ)型戦闘用有機人形のパンテル・ネビュルーズ(♀)、そしてぼくも加わっている。給仕としてではなく、会議の参加者として。
 男たちのリーダーであるサーメンチャイが切り出す。
「…いや、先日は『コロセ』の連中を始末してくれて本当に助かった。特にあの…カラジオの奴には手を焼いていた。君らのような優秀な者たちが我が『バジゲハリ』に協力してくれるのはまことに有難い…」
 そう、彼らはマフィアなのだ。イワシ先生が静かな口調で、しかし毅然と応じる。
「ですが彼らの首をわざわざメインストリートの路上に並べておく必要はなかったでしょう。不必要に敵愾心を煽ることで我々の身もより危険にさらされます。現にあの後、貴方の部下も二人、惨殺されたではありませんか」
 …そう言い終わらないうちにサーメンチャイの顔が怒りで赤くなり、机をドンと叩いて声を荒げる。
「そう、奴等はわしのかわいい部下、アメノとフーをむごいやり方で殺した。おウォおァオぅ…、可哀想に。生きたまま腹を割かれて内臓を引きずり出されてつらかったろうに…」
 サーメンチャイはそのまま泣き出した。つられて泣き出す部下もいる。嘘泣きではないのはその心からも明らかだ。まさに慟哭、サーメンチャイは身も心も引き裂かれんばかりに泣いているのだ。油断しているとぼくまで共感させられて泣きそうになる。サーメンチャイは泣きながら、その激しい悲しみを再び怒りに急転させ、拳で机を叩く。
「復讐だ! 奴らにも同じ苦しみを味わわせてやるのだ! そして二度とわしの部下にも縄張りにも手を出さないように心の底まで思い知らせてやるのだ!」
 うーん、どうもこういったやくざ的思考は自分には合わない…といった感じにイワシ先生は少しうんざりした顔をする。全くその通りだ。相手方の言い分を聞くことを「弱腰」などとぬかす戦争馬鹿は本当に困る。相手に「得をした」と思わせておいてその実こちらがいいとこを取ることこそ交渉の妙なのに。だいたいこのままチキン・ゲームを進めていったらどちらか一方、あるいは双方共倒れになるのは目に見えている。何よりもここ「こんだら亭」がマフィア同士の抗争の最前線になったりしたら目も当てられない。
 だが、それでも彼らはあのカラジオよりはましだ。カラジオは悪い意味で「ぶれない」男だった。有機人形の脳から抽出される麻薬「脳酒」で一儲けする…こちらとしては絶対に同意できないその考えを少しも曲げなかった。これでは交渉の余地なんてない。まさに「取り付く島がない」とはこのことだった。
 その点、少なくともサーメンチャイは何らかの交渉をしようとしてきている。それがぼくたちにとって良い方向に行くとは限らないけど…。
「我々が次に始末してほしいのは…」
 サーメンチャイが声をひそめる。まあ、こういった内容を大声で話されても困るが…。
「この男だ」
 サーメンチャイはそう続けて写真を数枚取り出す。こういう場合はホログラムより写真の方が間違いがない。イワシ先生はその男が何者なのかわからない様子だったが、いつもネットで様々な調べ物をしているチュー・オチューはその人物に心当たりがあるようだ。だがそのことを口にも表情にも出さない。そしてそれは正しい。どんな些細なことでもマフィア相手に不必要に手の内を明かす必要はない。
「この男の名はセツ・コバ。『コロセ』きっての武闘派だ。部下もえりすぐりつわものぞろいだ。できれば部下ともども皆殺しにして欲しい。あとで部下の写真もできる限り用意しよう。殺害計画の詳細はそちらに任せる」
 …おいおい、簡単に言うな。ぼくは思わずそう口走りそうになって慌てて手で口を押さえる。黒髪に浅黒い肌のチュー・オチューはよりはっきりした形で意思を表明する。
「イワシ先生、その依頼を受けてはいけません」
 だが、サーメンチャイはチュー・オチューを一瞥したあと、もう一つ重要なことをイワシ先生に向かって言った。
「…それと件の人物の住所がわかった。もしこの案件が片付けば我々がその場所まで案内してもいい」
 途端にイワシ先生の心がかき乱される。一体どうしたというのだろう? その「件の人物」とは何者でイワシ先生とはどんな関係なのだろうか? マフィアの手前、顔色こそ変えずに平静を保ったように見せかけてはいるが、こんな様々な感情が渦巻いているイワシ先生を見たことがない。…いや、思い出した…あの、卒業前の校長室での一幕が似たような感じだったろうか?
 イワシ先生はなんとか心の平衡を保たせつつチュー・オチューの方を向く。チュー・オチューがイワシ先生の耳元に口を近づけて囁く。多分、「今の彼らの言葉は嘘ではありません」とでも告げたのだろうか。確かに、サーメンチャイや他のマフィアの心からは騙そうとしている人間特有のものは感じ取れなかった。少なくとも彼らは詐欺行為によってではなく、正確な情報の対価を求めることでイワシ先生を動かそうとしているのだ。
 チュー・オチューの耳打ちの後、イワシ先生の肚は決まったようだ。一呼吸して自らを落ち着かせた後、マフィアに向かってその応えを言った。
「わかりました。その依頼を引き受けましょう。もう少し詳しい話を…」
 チュー・オチューはやや不満そうだが、「有機人形三原則」によりご主人さまであるイワシ先生には絶対服従しなければならない。ぼくのご主人さまはイワシ先生ではないが、いずれにせよ、もはやイワシ先生の意思を変えることは不可能そうだった。
 それまで腕を組んでおとなしくしていたパンテル・ネビュルーズの瞳に生気がみなぎり、口の端がつり上がる。それがぞっとするほど美しい。戦闘用だけあって血が騒ぐのだろう。マフィアの部下の一人はそれを見てぶるっと体を震わせた。「こんなのが敵じゃなくてよかった」…そう思っているのが手に取るようにわかる。
 だが、そんなパンテル・ネビュルーズを見ても不敵に笑っている男がいた。ボーゲン・ディーマンである。

                          に続く
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