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「いいかい? さっき話したことは私が合図したら全て忘れるだろう。もしかしたら一生忘れたままかもしれない。でも、もし思い出して…そのとき自由の身だったら、私の所に来て協力して欲しい。じゃあ、今から合図するよ…」
 二年前、卒業間際にイワシ先生はぼくたち数人を人形院(有機人形の教育施設)内の普段使われていない小さな部屋に集めて秘密のお話をした。
 多分、他のクラスメイトもそれぞれ数人ずつ呼ばれて同じように話を聞いたのだと思う。数人ずつに分けたのは一人の例外もなく全員に伝え、しかも一時的に忘れさせるように一人一人に完全に暗示をかけるために…だろう。
 なぜなら、イワシ先生のしたことは重大な違法行為だからだ。人形院の教師という立場を利用して私的な目的のために教え子たちを使役するのだから。有機人形とは「ご主人さまには絶対服従」と遺伝子にまで組み込まれ、後天的にもそのことを繰り返し刷り込まれるもので、人形院教師は有機人形の幼少期における擬似的ご主人さまなのだから…。
 ぼくがイワシ先生のあの時のお話を思い出したのは最近のことではない。二年前、卒業して間もない頃のことだ。ただ、イワシ先生が店を開いたのはつい最近らしい。

「さあ、社長さん、将校さん、可愛い娘いるよ!」
「お兄さん、安くしとくよ!」
 スピーカーから流れる一昔前の流行音楽に混じって客引きや娼婦の声があちこちから聞こえてくる。
 トーゴー通りは大通りではなく小さな裏通りだった。白、ピンク、黄、青、赤…色とりどりのネオンに液晶モニターがきらめき、日も沈んだのにまばゆいばかりだ。しかも空を埋め尽くす看板にはホログラフも混じり、どれが実体なのかもわからない。
 いかがわしい店がそこかしこの雑居ビルにあふれ、ホスト、ホステス、ニューハーフ、酔っ払い、一般人、マフィア…ごった返している。
 ぼくはこの通りに入ったあたりから少し心に蓋をしている。一応、テレパス能力者への用心のためだ。強力な能力者には通じないけど並レベル相手なら問題ないだろう。
 ただ、今のところ、自分以外に明らかに有機人形と思われる者は見当たらない。
 この西方ニッポン皇国では公には有機人形(オルガドール)を所有してはいけないことになっている。有機人形は堕落した人間が生み出したものだからだ(そこは間違ってはいないと思う)。
 …が、独裁者とその周りの幹部に関しては当たり前のように例外だ。
 イワシ先生はこの国の、せめて中(の上)流階級にも有機人形の素晴らしさを知ってもらおうと、国境近くの経済特区にあるこの町も「例外」にするためにがんばってあちこちに働きかけている…のだろうか?
 でも、教え子のぼくが言うのも何だけど、イワシ先生はあまり交渉ごとが上手じゃなさそうに思える…。
 トーゴー通りを北に進んで、だんだん人の数が少なくなってきたところにそのひときわ怪しげな店はあった。古代ニホン風…エド遊郭風というのだろうか? 雑居ビルの1−2階分をまるごと改築したようだ。一階の観音開きの木戸の上には雲形の木製看板がかかっていて、ニホン文字と漢字が書かれている。漢字は何とか読めるがニホン文字はさすがに読めない。…と思ったらちゃんと下に小さくローマ字で書いてあった。
 こんだら亭
 KON DHA RA Tei
 そうそう、確かイワシ先生の店はそんな名前だった。表向きは飲食店…で中身は有機人形売春宿だ…と思う。それ以外は考えられない。
 看板は下の三方向からそれほど強くないライトを当てられ、左側の木戸には「営業中」の札が掛けられている。一応、やってはいるらしい。
 …にしても誰がこんな見るからに怪しい店に入りたがるのだろう。ぼったくりバーですらもうちょっと入り易そうな造りになっていると思う。
 どう考えてもイワシ先生は商売向きじゃない。ぼくたち教え子がしっかりしてあげないと…。
 さて、ぼく以外に誰が、何人ぐらい既にここに集まっているのだろう。

「失礼しまーす」
 ぼくは右側の木戸を引き開けて店に足を踏み入れた。
「あぞらん、お久しぶりーっ!」
 いきなり全身純白のウェディングドレスをまとった長い黒髪の少女がぼくの名を呼びながら抱きついてきた。純白のキャップに縦長のフリルつき白マスク、澄んだ湖水のような青い瞳…有機人形アノマロカリス?
 …いや、違う。本物のアノマロカリスなわけない。その声は…
「シューク?」
 彼女の名を問うぼくの声にわずかながら苦味が混じっていたかもしれない。人形院時代のクラスメイトだ。彼女はぼくよりテレパス能力が強い。ぼくが店に近づいただけでその存在を察知したのだろう。
「よくわたしだとわかったね。アノマロカリスそっくりに肉体改造してもらったんだけど…」
「誰に?」
「Dr.ケレル」
 …確か名前を聞いたことがある。二つ星クトゥーラーだ。星が一つでもついたクトゥーラーは一流といっていい。つまりDr.ケレルは一流のさらに上なのだ。
 流石に二つ星クトゥーラーの作品だけあって本物のアノマロカリスに似ている…というよりシュークは1/4スノーホワイトだ。本物のアノマロカリスは純血スノーホワイト。もともと少し似ていた。
 世界的なアノマロカリス人気で有機人形の品種の中でもスノーホワイトは価格が高騰している。それはスノーホワイトの血を引いた雑種にも及んでいる。
 改めて周りを見ると入って北側の受付のところに淡褐色の髪の雑種有機人形の少女がいた。タノだ。肉体改造された様子はない。
 彼女もクラスメイトだったがシュークほど親しかったわけではない。目が合ってお互いに微笑み、軽く会釈した。
 受付の背後、さらに北側は一種の喫茶室のようになっていて(「茶屋」というものだろうか?)、夜もバーか何かとして営業しているようだ。カウンターの向こうにも二人、有機人形の少女がいる。彼女たちとの面識はない。先輩か後輩、つまりイワシ先生の教え子で別年度の卒業生だろう。
 ぼくが卒業したスクレモール人形院では学年間の交流はあまりなかった。他の人形院はどうか知らないが。
 入り口を入って正面方向、すなわち東側は段になっていて土足では上がれない。板張りの廊下が奥へ向かい、突き当たりで南北に分かれたその先は玄関からは見えない。
 正面南側には木製の階段があり、上階だけでなく下にも向かっている。外からはわからなかったが地階もあるようだ。
 シュークが人形院時代とさほど変わらない人懐こい無邪気な声でぼくに尋ねる。
「ところであぞらんはどこか改造されているの? 何て呼んだらいい?」
「『あぞらん』でいい」
 有機人形は肉体改造された場合、たいてい人形改造医(クトゥーラー)に新しい名をつけられる。クトゥーラーの社会的地位はきわめて高く(一般の医師の中にはクトゥーラーを蔑む者もいるが)、有機人形自身も肉体改造されることを誇りに思うように教育されている。多くの場合、改造有機人形は改造後の名前で呼ばれることが多い。
「シュークも『アノマロカリス』って呼んだ方がいいかな?」
「『シューク』でいいよ。源氏名は『アノマロカリス』だけど、みんなニセモノだってわかってるし、こんだら亭の仲間は昔からの名前で呼んでるし」
 シュークは本物のアノマロカリスの鼻の詰まったような声を真似て微笑みながら答えた。
 そのとき板張り廊下の奥の方から「きゅっ、きゅっ」という足音とともに東洋風のゆったりした服をまとった大男が現れた。
「久しぶりだな。元気にしてたか? 『あぞらん』…でいいんだったな」
「はい、イワシ先生、こちらこそお久しぶりです」
 体格で何となく「そうなのかな?」…と思ったけど声ではっきりイワシ先生だとわかった。襟足までのちょっと長めの黒髪はカツラだろうか?
 それに優しそうな細い目だ。人形院にいたときイワシ先生は常にゴーグルをしていたから目を見たのは実は初めてだ。
 ぼくはイワシ先生の方をあらためて見て少しぎょっとした。いつの間にかイワシ先生の背後に全裸の猫系獣人型改造有機人形の少女がいたからだ。全身が美しい雲のような豹柄のタトゥーで彩られている。
 ぼくはこのときテレパスを意識して使ってはいなかったが、彼女はこれほどまでに美しい体をしていながら、ぼくの視界の中心に来るまでその存在を全く感じさせなかったのだ。気配…というか感情も思考も消していたのだろう。
 イワシ先生がぼくの視線の動きに気付き、この獣人少女を紹介した。
「『パンテル・ネビュルーズR8』。Dr.モリスの傑作『パンテル・ネビュルーズ(雲豹)』の八番目のレプリカント・ドールだ。実際に製作したのはモリスの弟子のDr.ベリーミーだからオリジナルには及ばないが、私の教え子ではシュークと並んで出世頭かな? あぞらんやシュークの一年後輩にあたる…」
 やはりモリス・ドールの複製人形(レプリカント・ドール)だったか! 道理で美しく気品があるわけだ! Dr.モリスは世界に五人しかいない五つ星クトゥーラーの一人だ。獣人型改造有機人形製作では右に出る者はいない。
 複製人形(レプリカント・ドール)とはオリジナルと全く設計の元に同じ改造方法で作られた改造有機人形で、大抵は元となった有機人形も同じ品種か、遺伝的に近い雑種個体が使われる。
 ちなみにシュークはアノマロカリスに外見を似せて改造されたが、複製人形ではない。アノマロカリスを複製するのはアノマロカリスの製作者自身でなければ不可能だ。
 ぼくがパンテル・ネビュルーズに自己紹介しようとしたとき、彼女がみるみる殺気立つのを感じた。…いや、ぼくもすぐに「それ」を感じてイワシ先生とシュークの立ち位置を確認しながら茶屋の方向に飛びのいた。
 強い悪意、混乱、恐怖…などをそれぞれ心に宿した集団がこの店に近づいきている。…と思うまもなくその集団は木戸を「がーん」と蹴って靴音も荒く侵入してきた。
 見るからにマフィアとわかる連中だ。先頭にイワシ先生より肩幅の広い大男。次に別の男たちに支えられて両手を後ろ手に縛られた若い女が続く。「恐怖」の感情はこの女からだった。真ん中付近にいるオールバックの男がリーダーのようだ。この男の感情は簡単には読み取れない。えもいえぬ不気味さを感じる。連中は土足のままロビーにまで上がりこんできている。
 だが、とりあえずマフィアの連中はイワシ先生やぼくたち有機人形に対しては殺意を向けていない。ただ、事態はどう急変するかわからないし、銃を持っていれば暴発の危険もある。ぼくは緊張したままだ。いざとなったら自らの肉体をもってイワシ先生の盾となる覚悟はできている。
 一方、パンテル・ネビュルーズは緊張を解いてないものの表面上は落ち着いているように見える。彼女はおそらく戦闘用でもある。多分強い。でもどのくらい強いのだろう? ここにいる男たち全員を相手にできるだろうか?
「おらおらおらあ! 『いらっしゃいませ』も言えねえのかァア!? この店は」
 先頭の大男が声を荒げた。…いや、あんたらは客じゃないだろう。
「ぬぁ…」
「ヒルネゾウ、その辺にしておけ」
「す…すいません。カラジオの兄貴…」
 大男のヒルネゾウ(という名前らしい)がさらに怒声を浴びせて脅そうとしたとき、オールバック男カラジオが片手で制して歩み出た。ヒルネゾウは恐縮したように首をすくめた。
「返事は用意できたかな?」
 カラジオの声は決して大きくはなかったが、周囲を圧するように冷たく響いた。
「お金の件でしたら、もう少し待ってください。いずれ私自らそちらに伺いますから…」
 イワシ先生はやや猫背になって静かな声で答えた。…そうそう、あまりマフィアを刺激しないように…。
 …それより「お金」とはショバ代とかみかじめ料とか、そういう金銭だろうか? あるいはイワシ先生はマフィアから借金してしまったのだろうか? こういう連中はある種の肉食動物のように弱った獲物に喰らいついて骨までしゃぶりつくすのだ。
「言ったろう。『我々は無理に金を要求してはいない』と。ただ、代わりに『有機人形を二、三体貸してくれればいい』と」
「いえ、それだけはご勘弁を…。それに見合った分の金額は必ず支払いますから…」
 !!! …イワシ先生はそれまでぼくたち有機人形を必死に守ってくれていたんだ! 「ぼくたち教え子がしっかりしてあげないと」なんておこがましいことを考えていたぼくは馬鹿だ…。
「どうも貴方は我々を甘く見ているようだ」
 カラジオがひときわ冷たい声で右手を上げて合図した。場に戦慄が走る。
 カラジオが指し示した右手の先には後ろ手に縛られた20代半ばの若い女がマフィアの手下に支えられて立たされている。マフィアの手下が荒々しく女のブラウスのボタンをはじきとばして形の良い胸を露出させる。続いてスカートと下着を脱がせた。女はもう恐怖で泣き出している。マフィアの手下の一人がその様子をビデオに撮っている。
 マフィアの手下の別の一人がおもむろに短銃を懐から取り出し、22ミリの銃口を女の膣の中にねじ込んだ。
 そして引き金を引いた。
 プシャン! と何かが潰れたような鈍い音がした。膣がサイレンサーの代わりとなって銃声が響かないのだ。
「ヴヴぇぇぇぇぇぇ!!!」
 女は声にならない悲鳴を上げて性器と肛門と臍と鼻と口から血を吹き出して倒れた。
 受付やカウンターの奥の有機人形たちも恐怖に震えている。誤解のないようにいっておくが有機人形にも人間と同じように感情はある。何の罪もない人間が無残な目に遭うのを目の当たりにすれば当然、悲しみ、怯え、パニックになる。
「この女は我々の言うことを聞かなかった男の妻でね。これから解体してその男に送りつけるんだ。ビデオの後にね。貴方もこうならないうちに早く決断するといい…。そうだな、解体が終わるまでにいい返事が聞きたいものだ。おっと…それから警察を呼んでも無駄だ。あらかじめこの店の外に警官を立たせてあるから…この意味わかるな?」
 確かに扉の外には二人の男の存在が感じ取れる。店の中に入ってきているマフィアの連中と違ってあまり緊張感のようなものが感じられないのはいかにも公務員らしい…。
 ぼくも最初は警察を呼ぶことがちらっと頭をかすめたが、すぐに自らそれを打ち消した。民主主義国家でさえマフィアが公的権力と結託している例は枚挙に暇がない。独裁国家ならなおさらだ。…というよりマフィアというものは歴史的に封建領主が庶民を支配するために暴力集団に特権を与えたことに由来する。こいつらは非公式に独裁者の末端に繋がっているのだ。
 それに何よりもイワシ先生のしていること…突き詰めればぼくたちの存在自体がこの国では違法だ。ぼくたちは自力でこのピンチを何とかしなければならないのだ。
 マフィアの手下が三人がかりで倒れた女をロビーに仰向けにして、大きなバッグからのこぎりのようなものを取り出して女の肩の関節のあたりから切り始めた。
 あの…その女性、まだ生きているんですけど…。
「いぇをぅぅやぅぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 ヴァギナから弾丸を打ち込まれたショックで気絶していた女が別の激痛で目を覚ました。
「ぎゃははは、まだ生きていたんかぁ!」
「うるせぇから先に首切っちまえよ!」
 マフィアの手下たちは妙な狂騒状態でこの凄惨な行為を楽しんでいる。うち三人の感情からは麻薬中毒者特有の精神の混乱が感じ取れる。なるほど、薬でもやってないとこんなこと喜んでやれるわけないか。いや、むしろこの作業のために麻薬を投与されているのかもしれない。麻薬中毒者ではない残りの二人は神経が完全に麻痺しているのだろう。
 マフィアの手下の一人がのこぎりを女の首に押し当てて切り始めた。
「やぎゃうぅぅぅぷぇ…ぁぱ……………」
 女の首から動脈血が勢いよく吹き出し、一つの命が永遠に失われた。
「おおっ、死んだかぁ!」
「はっはっはーっ!」
 マフィアの手下どもは相変わらず楽しそうにロビーの床を血だらけにしながら解体作業を続けていて、一人がその様子をビデオに撮っている。
 髪をオールバックにしたカラジオがまるで賓客のように茶屋のボックス席の椅子に座り、感情をこめずに淡々と提案する。
「ただ女の解体を見ているだけというのも味気ないものだな。…どうだ? ひとつ余興でもやってみてはくれないかな?」
「はて…余興とは?」
 …別にイワシ先生はマフィアを馬鹿にしているわけじゃないけど、ちょっとその言い方は…。
「すっとぼけんじゃねえ! 人形どもとセックスショーやれっつってんだよ」
 案の定、短気なヒルネゾウが声を荒げた。この大男にはカラジオのような冷たい不気味さはないが、それとは別のいやーなものを感じる。
「毎日その人形どもにおめぇのそのチンポを使って教育してんだろうが! それを今ここでやれってんだよ!」
「申し訳ありませんが、それはちょっと無理な相談でございます」
「なめとんのか! てめぇわぁあ!」
 ヒルネゾウはイワシ先生に掴みかからんばかりにのっしのっしと近づいてくる。パンテル・ネビュルーズはもう臨戦態勢に入っている。あと一歩でも近づいたら飛びかかるつもりだ。彼女ならこの大男を止められるかもしれない。だがマフィアどもはここで暴れたくてうずうずしているのだ。これを奇貨としてこの店をめちゃくちゃにするつもりだ。イワシ先生が今後もここで商売を続けるつもりならそれだけは避けたい。
 ぼくは左手のかさぶたを爪で掻こうとしている。
 あわや一触即発の中、イワシ先生は仁王立ちしたまま帯を解き、前で合わさった東洋風の衣服を開いて下半身を露出させた。
 股間にあるべきものは何もなかった。
「あいにく、私は宦官でして…。これでお分かりいただけたでしょうか」
 ヒルネゾウは驚き、明らかに気おされた様子で二、三歩後ずさりした。
「なるほど、そういえば『有機人形を教育する者は宦官でなければならない』と聞いたことがあったな…」
 カラジオが初めて少し心を動かされた様子を見せたがすぐに冷徹な心を取り戻した。ただ、今この男が言ったことは必ずしも正確ではない。スクレモール人形院の教師には女性もロボットもいた。人形院によっては宦官ではない男性や有機人形が先生をやるところもあるらしい。
 パンテル・ネビュルーズは臨戦態勢を解いたが、怒りが収まらない様子だ。ある意味、イワシ先生は自らの恥を晒さざるを得なかったのだから。だが、とにもかくにもイワシ先生の機転のおかげで何とか一旦は収まった。今後はどう推移するかわからないが。
 ぼくは左手のかさぶたを掻くのをやめた。ぼくは何もできなかった。無力感がぼくを襲うが、脱力している場合じゃない。大男と取っ組み合うことはできないが、最初に覚悟したとおり弾除けぐらいにはなるのだから。
「そうだな…ならば我々自身がその有機人形というものを賞味してみるとするかな」
 カラジオが今度は冷たい心のまま別の提案をした。それを聞いてヒルネゾウが色めきたった。
「そうですね。兄貴! …おら、てめぇ! カラジオの兄貴の為に一番いい娘を出せやぁぁ!」
 心を読むまでもない。嬉々とした声だ。全くこの男はカラジオと違ってわかりやすい。
 イワシ先生がシュークに目配せした。シュークは既に覚悟はできているようだ。…というより、いつものことなのだろう。もっといやな客だっているかもしれない。ぼくをちらりとも見ずにカラジオの座るボックス席の方に向かった。
 シュークはウェディング・ドレス姿のまま、カラジオの股の間に跪いた。目を伏せて一礼し、白手袋を嵌めたままの手で男の股間のファスナーを下ろし、ペニスを引き出す。既に勃起している。
 そしてシュークはフリルつき縦長白マスクを外した。鼻は常人と同じだったが、その下にあるものが違っていた。
 口があるべき場所にヴァギナがあるのだ。改造有機人形アノマロカリスを模したように(本物のアノマロカリスのマスクの下を見たことはないが)。
 カラジオは今度もほんの少し驚いた様子だったが、そのままシュークにペニスを委ねた。シュークはこの男のペニスを顔面のヴァギナに挿入し、首を前後に動かした。
 あごが動くのが見えた。この動きからしてシュークの顔面のヴァギナ状のものは本物のヴァギナを移植させたわけではない。単に口を外科手術で変形させただけのようだ。実際に先ほどもシュークは顔面のマスクの下から声を出していた。
 ただ、いずれにせよ良くできている。何よりもこれだけ口を変形させて発音にさほど支障がないのだから。それはシュークを肉体改造したDr.ケレルの腕を証明するものだ。
 ヒルネゾウがカラジオの隣の椅子にどっかと座り、それはそれは嬉しそうに指でさし示した。
「俺はそっちの金髪娘だ!」
 …やっぱり…。ずーっとこいつからはいやーな感じがしてたんだよなー。
 大男の右手の人差し指は他の誰でもない、ぼくの方を向いていた。

 こんだら亭の一階ロビーにて、マフィアの手下どもは相変わらず若い女を解体し、それを一人がビデオに撮っている。手馴れたものだ。多分、こういった作業を何度もしてきているのだろう。もう、女の首も両の手も足も胴体から切り離されている。
 マフィアの中ボスらしいカラジオとその側近と思われる大男ヒルネゾウがロビー北側の茶屋の手前側ボックス席に並んで座り、解体作業を特に感動もなく見ている。
 シュークとぼくはそれぞれカラジオとヒルネゾウの股間に跪いてペニスに奉仕している。人形院時代、最も仲の良かったぼくとシュークが並んでそれぞれ別の男のペニスを口に含んでいる…それは不思議な光景だった。
 ぼくの口はシュークと違って特に改造はされていない。別にフェラチオ用に全抜歯されているわけでもない。だが、この大男はぼくの口淫技に悦び、時に腰を浮かせている。どの部位をどう刺激すればこの男が快感を覚えるか、ぼくには他の有機人形同様にテレパス能力があるから手に取るようにわかる。この行為のためにはそれほど強いテレパス能力は必要ない。
 シュークは多分、ぼくよりも真面目にオールバック男のペニスに奉仕しているように見えるが、今のシュークの心の中をのぞくような無作法をするつもりはない。
 とにかく、ここはできるだけ穏便に済ませなければいけないのだ。ぼくはそのことを充分に理解しているつもりだ。ぼくはシュークに対してある種の同胞意識が強くなるのを自覚した。シュークがぼくと同じ気持ちかはわからないけど。
「くううっ…」
 ヒルネゾウのペニスがぼくの舌技に耐えきれずに痙攣した。どろっとした熱いものが後から後から容赦なくぼくの口の中から喉の奥に発射される。喉に残った精液のいやな感じがやっと抜けかけた頃なのに。
 ヒルネゾウはカラジオがいる手前か、今はあまり羽目を外していないように思える。この大男が素を出せば、ぼくをもっと乱暴に扱うだろう。その際にぼくが男だと気付けば理不尽な暴力をぼくや他の者に振るうかもしれない。ぼくはこのとき、カラジオの存在に感謝すらしていた。
「さて…最初にどの人形を我々に貸してくれるか決心はついたかな」
 そこにいる者全てを現実に引き戻すかのようなカラジオの冷たい声が響いた。シュークの奉仕にすらさほど感銘を受けていない。快感を覚えてはいるようだが。
「ですが兄貴…こいつすごくいいですぜ。わざわざヤク漬けにしなくても…」
 ヒルネゾウが言い終わらないうちにまるで氷の悪魔のような声がそれをさえぎった。
「いいか、二度と口出しはするな」
 オールバック男の静かな怒りはその場を恐怖に凍りつかせた。
「す、すみません、カラジオの兄貴…」
 大男は恐縮してペニスまで縮みこみ、楽しそうに解体作業をしていたマフィアの手下どもは急に私語をやめた。ビデオを持つ男の手は震えている。
 シュークの心はのぞくまでもなく恐れの感情を発散させていた。ぼくも恐怖を隠せず、がたがたと足を震わせていた。パンテル・ネビュルーズ以外の他の有機人形も同じだろう。
 だがちょっと待て! さっきヒルネゾウが言いかけていたこと…「ヤク漬け」…。
 !!!…数瞬、間をおいてぼくは全てを理解した。
 こいつらはぼくたち有機人形に売春をさせようとしているわけじゃない。国民の大半が貧しく、有機人形にあまりなじみのない地で有機人形売春宿を開いたところでその利益はたかが知れてる。マフィアは金にならないことはしない。奴らは…もっと恐ろしいこと…有機人形を使って「脳酒(ブランリクール)」を作るつもりなのだ!
 「脳酒」とは麻薬の一種で、服用者はそれはそれは素晴らしい快感が得られるらしい。しかしその中毒性はきわめて高く、また非常な高価で取引される。
 脳酒の製造方法がまた恐ろしい。麻薬(「白蟲」が最も良いとされる)中毒にした有機人形の脳から抽出するのだ。これは人間ではうまくいかない。麻薬中毒にした人間からは脳酒とはとてもいえない低レベルの麻薬しか生産されない。有機人形の脳からでないといけないのだ。
 全く、カラジオに感謝なんて間抜けもいいところだ。このオールバック男に比べたらヒルネゾウなんか可愛いものだと思えてくる。…いや、本心からそう思う。
「どの人形を我々に貸してくれるのだ? こいつか?」
 冷たく、恐ろしい声の持ち主がシュークをあごで指し示しながら問うた。
 それまで何か考え事をしているかのように腕を組んで押し黙って立っていたイワシ先生がついに沈黙を破った。
「…1億D(ドールス)」
 イワシ先生のその一言は驚愕の静寂をもって迎えられた。
 なぜならばこの国で1億Dは大変な金額だからだ。インフレが酷くて国際的には全く信用されていないこの国の通貨「ウェン」ではなく、多くの国家や無国籍地帯で採用されている世界標準通貨「ドールス」だ。多分ここにいるぼくたち有機人形全員の価格の合計より上だろう。
 それまでさまざまなことに冷淡だったカラジオが初めて興味を示して少し身を乗り出した。このマフィア連中が国内外でどれほど稼いでいるか知らないが、少なくとも無視できない金額であることは確かだ。
「それはそれだけの大金を我々に支払うということか? 人形どもを我々によこす代わりに…」
「はい…、あと五、六時間待っていただければ…。知り合いがそのころここに入国予定でして…」
 イワシ先生の交友関係について詳しく知らないけど、そんな大金をポンと出してくれる人物なんて本当にいるのだろうか?
 カラジオは有機人形で脳酒を作るのとどちらが得か考えているようだ。脳酒作りは莫大な富をもたらす可能性もあるが、最初のうちは製作に失敗することもあるだろうし将来的には脳酒が値崩れするかもしれない。
「失礼」
 カラジオはシュークの奉仕をやめさせ、ポケットから携帯端末を取り出して一人で外に出た。誰かと連絡を取るつもりらしい。ぼくはヒルネゾウのペニスをフェラチオしながらひそかに「耳」を研ぎ澄ませた。

 数分ほどした後にオールバック男は戻って来た。
「待たせてすまなかったな。1億Dで手を打とう。ボスが了解した。受け渡しの場所と時間は後でこちらから連絡する」
 カラジオは右手を差し出しイワシ先生と握手をした。
「今後もよろしくお願いしたいものだな」
 そう微笑んだカラジオからはかすかな殺意、優越感…などがにじみ出ていた。
 哀れな女の解体とその作業のビデオ撮影はほぼ終わっていた。マフィアの手下どもはバラバラになった女の死体をいくつかに分けて袋詰めにした。

                             に続く

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