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 レンタルリザード屋のおやじさんは有機人形の二人連れに驚いて、「貸していいものだろうか?」と戸惑う。有機人形に馴染みがないのだろう。有機人形に関する国際基準を説明する時間はないので、ぼくは身分証明書(偽造・あぞらん名義)を見せてお金を余計に払って二人乗りできそうな大きめの青いトカゲを一頭だけ借りる。
「もっと小さい方がスピードが出るんじゃないの?」
 シュークは積載量70kgの中くらいの個体を指さす。
「…そうだけどぎりぎりだとトカゲに負担がかかって結局遅くなる。ぼくは服込みで35kg以上あるし…」
「え? …そんなにあるんだ。わたしより軽いかと思ってた」
 実はぼくは35kgよりずっと重いのだけれど…。

 ぼくはトカゲに跨って手綱を握り、シュークを後ろに乗せる。トカゲは二本足で立ち上がって走り出す。
 馬は上下に揺れるらしいが(乗ったことはない)、トカゲは骨格・筋肉の構造上、左右に揺れる。もともと二足走行の北米産ハシリトカゲを遺伝子改良したものだ。慣れないと酔う者も多い。このトカゲは横揺れが少なく、しかも扱い易い、いい子だ。
 トカゲの首の後ろについた速度計は時速40km前後を示している。GPSを頼りにマフィアとイワシ先生を追いかける。
 レンタルリザードは街の外れにあったからトカゲをちょっと走らせるとすぐに砂漠に出る。道は舗装されていない。最初は砂利が多いがだんだん砂と岩山だけになる。
 マフィアとイワシ先生を示すマークは砂漠に入ってから明らかにスピードが落ちている。おそらく車輪自動車だろう。一方、トカゲは砂利でも砂でも岩だらけでもスピードはさほど落ちない。このままいけば、あと10分以内に追いつく。
「少し飛ばすからしっかり掴まって!」
 ぼくはシュークに注意を促す。こんなところで落馬ならぬ落トカゲしたら大間抜けだ。まあ、落ちても下は砂だから命に別状はないと思うけど…。ぼくの頭には赤黒いヘルメットもどきがあるし(役に立っているなあ)、シュークの白いナイトキャップもクッション代わりにはなるだろう。それにシュークはぼくよりずっと軽い。
 よく、高所から人間の子供が落ちて助かって「奇跡だ」なんて報じられるけど、大人なら確実に死ぬ場合でも、幼児なら普通に助かることもある。落下したときの衝撃は体重に比例するから、60kgの人間の大人と比べて体重が1/6なら衝撃も約1/6に軽減される。また、幼児の骨は大人に比べて弱いが、体も柔らかいため、衝撃を分散させやすい。
 一般的に人間より軽く、体が柔らかい有機人形も同様だ。

 街から離れるとそれまでネオンの光にかき消されていた星々が輝きを増す。今のぼくには星が点の光としてはっきり見える。シュークの目には満天の星がどのように見えているだろうか? 多くの有機人形は極度の近視だ。遠くを見る必要がないからだ。かつてのぼくのように星の光はぼやけて見えるのだろうか?(それはそれでまた美しいが)
 GPS上のマフィアとイワシ先生を示すマークが止まった。目の前の岩山の向こう側だ。急がなくちゃ。マフィアはイワシ先生を車から降ろしたらすぐに銃を突きつけてくるだろう。
 ちらっと車のライトが見えた。車は四台ある。うち二台はまだのろのろ動いている。暗くて距離はつかみにくいが、ここから200メートルぐらいか。
 ぼくとシュークは岩山の反対側、車の位置からは見えないところでトカゲから降りる。月は出ていないから大丈夫だとは思うが星明りでシルエットが見えるとまずい。偶然ライトが当たる可能性もある。
 岩山に体を隠して横目で見ると車のドアが開いて人がわらわら出てくるのが見えた。イワシ先生とパンテル・ネビュルーズもいる。二人ともマフィアの男に後ろから抱えられてはいるが自分の足で歩いている。とりあえずまだ無事なようだ。少しほっとするが、もたもたしてはいられない。
 ぼくの緊張を感じ取ったのか、シュークが小声で訊いてくる。
「ねえ、何が見えるの? イワシ先生は?」
 シュークにはイワシ先生は見えていない。車のライトがぼんやり見えるだけか、あるいは人が大勢いることぐらいはわかるかもしれない。さすがにこの距離ではテレパスは使えないだろう。死の断末魔があればかろうじて感じ取れるかもしれない。
「大丈夫。イワシ先生は死んだりしない」
 ぼくはシュークを安心させるように答えた。そして念を押す。
「ここでじっとしてて。…それと、ぼくが呼ぶまでこれから何が起こっても声を出さないでここでトカゲを押さえてて」
 ぼくは心の中で六文字のパスワードを思い浮かべる。
 それは「彼女」の名であり、ぼくの本当の名でもある。
 そして左手のかさぶたをはがす。ぼくの血がENTERキーだ。ナイフを使うことが多いが、今回は使わなくてもいい。
 「彼女」が出現して「ぼく」の人格と入れ替わる。
 手足は急速に伸び、胸が膨らむ。股間の急所は体内に引っ込み、柔らかかったぼくの体は柔軟性を失わないまま筋肉質に引き締まってゆく。
 「彼女」は変身が完了するのを待たずにイワシ先生のいる方向へ駆け出し始めた。

 マフィアの連中は全員、車から降りたところだ。リーダーのカラジオ、大柄なヒルネゾウほか先刻、こんだら亭に押しかけた連中に加え、12人も初めて見る顔がある。そしてほぼ全員が実弾銃を持っている(光線銃は扱いやすいが高価)。
 イワシ先生は二人がかりで後ろからそれぞれの腕を捕まれている。カラジオがオールバックの髪をなでながらイワシ先生の正面に立ち、感情をこめぬ口調で言い放つ。
「もう一度訊こう。1億Dを払ってくれる知り合いとやらの入国はまだかな?」
「…悪かったな、ここまで引っ張って。全部ウソだ。そんな奇特な知り合いなんかいるわけないだろう」
 だが、カラジオはイワシ先生の言葉にほんの少しの驚きも示さなかった。
「やはりな」
 冷酷さの塊のようなカラジオは長々と無駄話をするつもりはなく、最終確認をした後はすぐにイワシ先生を始末する合図をしようとした。だが、その右手は上げかけたところで止まった。
 「彼女」が既にマフィアの手下どもを殺戮し始めていたからだ。
 「彼女」は右手に短刀を握り、マフィアの手下どもに背後や横から近づいて次々に頚動脈を掻き切る。この短刀は特殊コーティング樹脂製で硬度の割りに弾力があり、金属刀と違って血にまみれても切れ味はほとんど落ちない。しかもX線検査に引っかからない。普段はぼくの左小手の筋肉の内側に収まっている。
 ぼくは「彼女」の目を通してこの殺戮劇を見ている。ぼくが「彼女」に肉体を委ねているときは自律的には眼球一つ動かせないが(動かせたら「彼女」の足を引っ張ることになる)、意識が完全になくなるわけではない。感覚は共有しているので、むしろ背後から狙う第三者がいないかどうかテレパシーを駆使して「彼女」をサポートする。
 刻々と変化するマフィア各人の銃口と視線を同時進行的に把握し、獲物の死角から近づいて一撃の下に喉を切り裂くさまはさすが戦闘用と言うしかない。
 どんな映画より迫力満点だ。
「あーっはっはっはっははははははははは!」
 「彼女」は無邪気な子供のように半分笑いながら実に楽しそうに人を殺す。実際に「彼女」の精神は子供だ。ぼくの脳に植えつけられてこの世に生を受けて(?)からまだ二年しか経っていない。「彼女」はぼくの知識や経験の影響を強く受けているから精神年齢は通常の有機人形の二才よりはかなり上だ。あと数年でぼくに追いつくだろう。
 とにかく「彼女」にはできるだけ多くの戦闘体験を積ませたかった。
 「彼女」の動きに呼応したわけではないようだが(イワシ先生が「全部ウソだ」と言った瞬間に動き出した)、パンテル・ネビュルーズも自身の腕をつかんでいた背後の二人の男の関節を次々に外して素手で打ち倒す。そのパワーは確実に「彼女」より上だ。
 実際のところ、ぎりぎりだった。あと少し到着が遅かったら全てが無駄になっていた。パンテル・ネビュルーズがマフィアどもを皆殺しにしていただろう。いや、イワシ先生が殺害されていた可能性も最高2−3%ぐらいあったかもしれない。言っておくが2−3%はかなり高い確率だ。もし、「今から出かけたら2−3%の確率で死ぬ」という結論に達したら貴方はそのまま出かけるだろうか? タノやシュークが不安がるのも当然だ。彼女たちの中でイワシ先生が死ぬ確率がどのくらいだったのかはわからないが…。
 マフィアの面々は驚愕し、慌てふためいている。脳酒製造用にするため「有機人形を殺すな」との命令は受けていたのだろうが、一旦は「彼女」に銃口を向けようとしたものの明らかに引き金を引くことを躊躇し、「彼女」が何のためらいもなく自分たちを殺害することに衝撃を受けている。
 イワシ先生が苦笑…といった感じに顔をしかめながら口を開く。
「…おまえら、有機人形をロボットか何かと勘違いしてるんじゃないのか? 言っておくが有機人形にはロボットと違って人を殺すことに関しての禁止規定はない。【有機人形三原則】は…、
1. ご主人さまには絶対服従
2. (1に反しない限り)有機人形同士は仲良く
3. 私たちは道具です
…『人を殺すな』とはどこにも書いていない!」
 ぼくは「彼女」が行う殺戮をサポートしながら「余計なことを言わないでも…」と思った。
 パアン!
 弾丸がパンテル・ネビュルーズの脇をかすめる。どこまでも冷静なカラジオが自らも発砲しながら迅速に命令を下した。
「何をしている! 撃て! その二体は殺してもかまわん!」
「ですが同士討ちの危険が…」
「構わん! 撃て!」
 パアン! パアン! パパアン!
 あちこちから銃声が鳴り響くが、「彼女」にもパンテル・ネビュルーズにも一発も当たらない。最も強力な武器であるマシンガンを持った男はちゃんと最初に始末した。それ以外の連中も次々に二人の餌食になってゆく。
 一方、カラジオは非情な命令を下すのと同時に別な行動に出た。すうっと前に出てイワシ先生の眉間に銃を突きつけたのだ。そして戦闘を続ける二体の有機人形に向かって言う。
「そこまでだ。ご主人さまとやらに死んで欲しくなければ今すぐ動きを止めろ」
 パンテル・ネビュルーズはイワシ先生から10メートル以上離れている。今から攻撃してもその前にこの男は引き金を引いているだろう。「彼女」はそれ以上に距離がある。
「攻撃をやめるな! わかっていると思うが…」
 イワシ先生が叫ぶ。自分に気をとられて撃たれやしないかを心配するかのように。…うん、大丈夫。「彼女」もぼくも全ての銃口の向きには常に細心の注意を払っている。パンテル・ネビュルーズにも油断した様子はない。
 だが、カラジオも動揺してはいない。
「そうか…では『ご主人さまに絶対服従』なら、その『ご主人さま』が死んだらどうなるかな」
 …いや、この男は冷酷なだけでなく実に鋭い。実際にその通りなのだ。「ご主人さま」が死んだら一般にその命令は効力を失う。「遺言」でない限り敵討ちを果たす義務もない。
 パアン! パアン!
 カラジオは二度、引き金を引いた。一度目は正確に眉間を、二度目は心臓の付近を撃った。
 イワシ先生のカツラが飛んでスキンヘッドが見えた。
 だが、イワシ先生は倒れなかった。自分の腕を掴んでいた二人の男をそれぞれ一撃の下に倒し、素早くカラジオの銃を持った右腕を掴むと服の内側から特殊ゴーグルを取り出して装着した。
 カラジオは冷酷無比だが、知識が不足していた。イワシ先生はただの宦官ではない、全身を機械化されたサイバネティック・カストラート(以降「サイボーグ宦官」と称す)だったのだ。あの娼館イグドラシルの護衛や私設軍にもサイボーグ宦官は多い…らしい(詳しくは知らない)。
 少なくともカラジオの持つ小銃ではイワシ先生の強化軽金属製頭蓋骨や防弾人工胸筋を傷つけることはできない(もちろん継ぎ目など弱点もあるが、銃口はそこには向けられていなかった)。全く、イワシ先生に小銃を突きつけるなんて無意味もいいとこだ…カラジオがそのことに気付いたとき、全ては遅きに失していた。
 みょぎりゅぎゅるる…。
 鈍い音がしてカラジオの右手がイワシ先生の機械の手で握りつぶされ、銃が落下する。
「………!!」
 全く見上げたものだ。この男は右手を砕かれても顔を少し歪めただけで悲鳴一つ上げない。
 だがイワシ先生はカラジオのそんな様子に何の感銘も受けてはいなかった。別にイワシ先生がカラジオより非情だったわけではない。別のことで頭がいっぱいでカラジオの精神状態を思いやる余裕がなかったのだ。イワシ先生は苦笑で顔をしかめたままつぶやいた。
「あーあ、予定が狂っちゃったなぁ…」
 カラジオはイワシ先生よりずっと冷酷な男だった。だが、物理法則はこの男よりもはるかに残酷だった。
 実際、イワシ先生の判断は迅速でも的確でもなかった。むしろ逡巡していた。だが、カラジオとイワシ先生との間には非情さや経験などでは決して埋められない程の力量差があった。
 イワシ先生の右手がカラジオのこめかみを握ったとき、質量、硬度、慣性、圧力、張力、時間…全ての要素はたった一つの結果を導くのみだった。
 そして結果は物理法則通りになった。カラジオの頭蓋骨が砕け、脳ごと握りつぶされた。グンタイアリ一匹ではどうあがいても巨象を倒すことは不可能なのだ。
 ましてやここは砂漠だ。足枷となるものは何もない。
 もし「こんだら亭」で戦闘が行われたら後で修復にお金と時間がかかるし、何よりも非戦闘用の有機人形が何人か巻き添えを食っていたかもしれない。それだけは避けたかったことだろう。まあ、勝敗自体は変わらなかったと思うが、こんな無意味な戦闘でこちら側に一人たりとも犠牲者を出してはいけない。
「…えーと、予定が変わった。マフィアどもを皆殺しにしろ!」
「はい!」
 パンテル・ネビュルーズがそう答えるのと同時に指の中にしまってあった鉤爪が飛び出てマフィアの手下どもの顔面から脳まで切り裂き、あるいは心臓をえぐる。
 …いや待て…「予定が変わった」ということは…今までは殺しちゃいけなかったの?
 もはやマフィアの手下どもは完全に戦意を喪失していた。カラジオが死んでから全員が息絶えるまで五分とかからなかった。
 いや、もうちょっとかかったかもしれない。「彼女」はヒルネゾウを殺すにあたって最初に両手を切断して反撃できないようにしたあと他のマフィアを殺し尽くし、生き残ったのがヒルネゾウ一人になったところで彼自身のペニスを切断してあごを外した喉の奥に押し込んで窒息死させようとしたのだ。
「きゃーっははははは!! ざまぁみろーっ!!」
 あまりこのような行為は良くないと思うが、何よりも今は「彼女」に「戦闘は楽しい。殺人は楽しい」と思わせることが第一だ。少なくとも人を殺したあと罪悪感を覚えるようではいけない。それが戦闘用有機人形を育てる上で最も大切なことだ。まあ、猫が小さな獲物をいたぶるようなものだ。
 見かねたパンテル・ネビュルーズがひと思いに首を切断して、訝しむように「彼女」を見た。「彼女」はおもちゃを取り上げられた子供のように(比喩ではなくてまさにそうだ)不満げに口を尖らせたが、不平を言ったりパンテル・ネビュルーズに敵意を見せたりはしなかった。ぼくもそこまで甘やかして育ててはいない。

「シュークさーん! もう来ていいってー!」
 「彼女」は(やっぱりぼくの命令で)岩山の方に向かって大声で叫んだ。
 シュークが岩山の陰から現れてトカゲを連れてやや小走りに近づいてくる。
 イワシ先生は「なんでこんな危険なところに連れてきたんだ?」とでも言いたげな表情だったが、つぶやいたのはそれとは別のことだった。
「ところで、おまえ…『あぞらん』だよな…?」
「うん、そーだよ」
 「彼女」は答えた。名前は同じだ。実は顔も声もほとんど変わっていない。だが口調がぼくとは異なる。
「別人格…か?」
 イワシ先生はすぐに気付いたみたいだ。パンテル・ネビュルーズもうなずく。多重人格有機人形はたまに存在する。
「しかし…その体…」
 「彼女」の形のよい胸のふくらみや腰のくびれは服の上からでも充分わかるだろう。完全に女性の体形だ。身長も10センチ以上高くなっている。質量保存の法則により体重は変わらないが。
「ボクは女の子の『あぞらん』だよ。よろしくー。でも本当の名前は…」
 強制終了!
 だめだ。子供は油断するとつい余計なことをしゃべってしまう…。もう少し分別がついたらもっと長く表に出させてあげられるんだけど…。その方がぼくも楽だし…。
 「彼女」が再び「ぼく」と入れ替わると共に、体が全体的に縮み、乳房が引っ込む。ショートパンツの下で見えないが、生殖器も元に戻る。この間、約20秒。
 イワシ先生がまじまじと「彼女」が「ぼく」に変わるのを見つめる。その表情と心情からは驚愕の大きさが見て取れる。
「いや…なんというか…私は『変身型改造有機人形』を生で見るのは初めてなんだ。そう滅多に創れるもんじゃないしな…。星一つ、いや二つ星レベルでもまず無理だろう…。誰なんだ? おまえを改造したクトゥーラー(人形改造医)は?」
 ぼくは心を空にする。
「性転換型が得意なクトゥーラーというと…Dr.マリア・エリーゼ・ブルーメンブルクか?」
 その名前はその時のぼくにはただの音声の羅列でしかなかった。他の固有名詞が出てきても全く同じだったろう。…それが心を空にするということだ。
 むしろ心が平静でなくなったのはシュークとパンテル・ネビュルーズの方だった。
「え? …Dr.マリア・エリーゼって…」
「クトゥーラー界の帝王・Dr.フランツ・ブルーメンブルクの娘にしてセプターズ・セプト(ダーウィン医大人形改造科07年卒業の七人)の一人…」
 ぼくが無言でいるとイワシ先生は別の提案をしてきた。
「…そういえば、ばたばたしてて『誓いの儀式』がまだだったな」
 イワシ先生は全くの無傷だったわけではない。弾丸を受けた眉間と左胸の生身の薄肉部分から軽く出血している。
 イワシ先生は自分の眉間からまだ少し流れている血を指で拭い取ってぼくの目の前に差し出す。これでぼくがその血(体液なら何でも可)を舐め取って「誓いの言葉『ぼく、あぞらんは今よりイワシ先生をご主人とします云々』」を言えばイワシ先生が正式にぼくのご主人さまとなるのだ。
 高級有機人形の中にはご主人さまのDNAを(味として?…ほとんど超能力かオカルトの世界だ)記憶する者もいるらしいが、ぼくにはもちろんそんな能力はない。ほとんどの有機人形にとってはその名の通り、儀式的なものだ。
 ただし、儀式後の「ご主人さま」の支配力は絶対的だ。
 だが、ぼくはそのまま動かず、「誓いの言葉」も発しなかった。形式だけ「誓いの言葉」を言うことはできただろう。他の有機人形がぼくの立場だったらそうする者もいるかもしれない。だけどぼくは自分にもイワシ先生にも偽りたくはなかった。
 それまでのやり取りでイワシ先生はある程度このことを予想していたのだろう。
「…なるほど、他に『ご主人さま』がいる…というわけか」
「はい」
 ぼくは一呼吸おいて続ける。
「…ですがイワシ先生にはできる限り協力するつもりです!」
 これは嘘偽りのない本心だ。
「…で、その、おまえの『ご主人さま』は誰なんだ? 私の知っている人物か?」
「………」
 ぼくは再び心を空にする。
「『言えない』ということは私の知っている人物か、…あるいは有名人か? …いや、まさか脱走・逃亡したとか…」
「………」
 ぼくが無言でいるとシュークが助け舟を出してくれた。
「でもあぞらんみたいな優秀な有機人形はイワシ先生にはぜひ必要でしょう? あぞらんにはまだまだいろんな能力があるみたいだし…もし本当にDr.マリア・エリーゼ作だったら絶対に手放しちゃダメですよ。四つ星クトゥーラー作ですよ。もし何か問題があったとしても『知らなかった』でシラを切り通せばいいんですから…」
 …ちょっと(かなり)ぼくを買いかぶってくれているけど。
 イワシ先生は苦笑したが、それでもはっきり意志を固めた。
「…そうだな。おまえの素性についてとりあえず詮索するのはやめよう。もう一人の『あぞらん』ともども、ぜひ私の力になってくれ」
「はい!」
 こうしてぼく(と「彼女」)はイワシ先生のもとにいられることになった。
 一人の犠牲も出さずに、「彼女」(ぼく)も無傷でマフィアをやっつけたのだから滑り出しとしては悪くない…かな?
 イワシ先生が額の血をぬぐいながら話す。
「えーと、これからこいつらの事務所に戻ってそこの親玉を殺してその首を持って対立グループ「バジゲハリ」のところに駆け込もう。こいつらのグループ「コロセ」の方がこの国の中枢には近かったんだが、予定変更だ。まあ、予定を全員に周知させてなかった私が悪いか…」
 …うーん、イワシ先生にかすり傷を負わせた上に無意味な殺戮をしてイワシ先生の予定を狂わせてしまったか。全然ダメだ。

 夜は更け、木星が天頂近くに輝いている。
 地球上で生物が多様に進化できたのは実は木星のおかげでもある。太陽系最大の惑星である木星がたまたま円に近い軌道だったため、他の惑星も円に近い軌道にならざるをえなかった。摂動の影響で円が最も安定した軌道になるからだ。
 他の連星系・惑星系では円に近い軌道の星はむしろ珍しく、さまざまな離心率の楕円軌道が見られる。もし木星が離心率の大きい楕円軌道だったら他の惑星が円軌道をとるとむしろ不安定になり、やはり離心率の大きな楕円軌道にならざるをえない。
 そうなると地球は一年のうちに灼熱期と氷結期が交互に繰り返され(四季などという生やさしいものではない)、とても高等生物が生息できる環境ではなくなる。つまり地球上の全ての生物が今こうしていられるのは木星のおかげなのだ。
 …このことは今や子供でも知っていることだ。でも、さまざまな軌道を持った連星系が発見されてからも数百年間、多くの人はこの「木星の恩恵」に気付かなかった。
 それと同様に今はごく一部の人(と有機人形)だけが気付いている事実も時がたてば多くの人々が共有する認識となるだろう。

 この物語は相対性の話だ。
 「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物にならないように気を付けなくてはならない。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」――フリードリッヒ・ニーチェ
 …自分の今いる場所が深淵のどちら側なのか、そもそも自分が怪物なのかどうか、誰にわかるというのだろう?

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